鉄と亜鉛の思考支援



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2004.08.30(月). 情報を呼吸する

おのがてによりひらかれる

 4ヶ月くらいWikipedia関連文書とか読んだりいろいろ考えたりしてみて(てゆうか武道のほうに心が流れていたしね)、やっとこさ少しだけ判った気がする。ふむ。

というか論文だ

 さて昨日自画自賛したばかりの舌の根も乾かぬうちに書くのだけれど、[[イスラム銀行]]、これはアレですな。百科事典ぢゃ無いですな。論文。良い意味とかでなくてね。
 文章の呼吸が、事典ぢゃなくて論文なんですわ。元がソツロンだから、か。だいぶいじったし、そのあと手をいれてもらってるんだけど。

 そのほか、自分で書いたのとか、読み返してみた。半年以上前にもやったけど、まだまだ問題点がみつかる。ふむぅ。

センモンカ

 「専門家」っていうと、職業的専門家である必要あるのかな? 僕が言うのはもっと広い意味ぢゃった。それから僕に限らないけれど、飯の種について必ずしも事典にかける種類と深さの知識があるとは限らないような気がしたり。

今日は颱風

 いや、風がホントに強くて。


2004.08.29(日). 鉄と亜鉛の思考支援

GoogleDeskbarが連れて行ってくれる。

 GoogleDeskbar……ここしばらく使ってます。便利なことこの上ないです。まあSymbolCommanderを使っているから、あらゆるアプリにある文字列をGoogleサーチできるのですが、このDeskbarだと設定さえすれば「ja.ウィキペディアの当該記事を開く」とかもできてしまうので便利。まあ、それをこなす別のツールもあったりするわけですが「ミニビューワ」画面の動きが面白かったり。

 きちんと日本語化されているのはブラウザに付くツールバーのほうですが、使ってません。同じようにできるのかもしれませんが……

 それからこれは日本語化するやつを提供しているペイジですね。でもまあ英語のままで使ってます。別段困らないので。

 Ctrl+Alt+Gでデスクバーにフォーカスが移る(カーソルが立つ)のが嬉しいですな。(Photoshopと衝突するような気もしたり。まあいいけど。……それに自由にカスタマイズできるからいいでしょう。)
 ついでに、クリップボードに文字列があると、それがペーストされる。
 で、Enterキーを叩くとミニビューワが出現して、検索結果が表示される。これはIEコンポーネントを使ってる模様。

 で、Ctrl+Lで、「検索結果の一番上にあるサイトを直接開く」。この機能はサイト上のGoogleでも"I'm Feeling Lucky"と呼ばれているので、そのLってことでせう。

 ほかにもいろいろ、「options」の「Customised Search」タブの中で設定できるのが素敵。

 そして「ja.wikipedia.org内からGoogle検索」……Wikipedia本体の検索が嫌いという方にオススメ。そうでなくても、Wikipediaのサイトを開かなくてもこれが使えるのは、思考支援ツールとして素敵。
 URLを『http://www.google.com/search?hl=ja&ie=UTF-8&domains=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org&q={1}&sitesearch=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org』 に設定して、僕の場合打鍵短絡はCtrl+J。

 それから「Wikipedia日本語版の記事をダイレクトに開く」これ簡単。
 『http://ja.wikipedia.org/wiki/{1}』 と設定するだけ。あ、ただし
 「Use UTF encoding search 云々」はオンにせねば大変なことになります。どう大変かは、やってみてくだされ。エンコードミスってぇやつですかこれが。以前こういう記事名エラーが幾度かありましたな。
  打鍵短絡は「J]の隣なので「K」。 この場合アルファベットに深い意味は無し。この位置ってQXだと「アイテムを消去」なのね。Emacsと同じ「Kill」だろうか語源は。英語版マニュアル読めばいいんだろうけど、このソフトは内部的に結構別物らしいし、まあそもそも1バイトのエディションは持っていないのだな。多言語組版やってるS社に行けばあるんだろーか。ふむ。
 さて余談はさておき、 ここでもう一つ。僕の場合、「Display results in mini-viewer云々」のチェックをオフにしておく。そうすると標準仕様のブラウザのウィンドウが立ち上がる次第。

 さて、通常はこれだけでいいんだけれど、応用例としては
『http://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:{1}』

 これをみると判るとおり、 {1}  の部分に、入力された文字列をUTFエンコードしてHTTPに投げる(?)ってことなんですよね。Googleの超並列Linuxマシンにつながっているというよりは、単にWebという知識の書庫にURLを使って聞いているだけ。
 えぇと、つまりYahooサーチも埋め込める?

 ……やってみました。おお。できる!
 そりゃそうか。

 ただしこちらの場合、「Use UTF 云々」はオフにしないとエラーが出ます。はい。
 設定したURLは『http://search.yahoo.co.jp/bin/search?p={1}』
 Yahooはマルチバイトに対する対処が違うのか。

 Yahooニュースからのリンクが化けていたりしたのと、このあたり関係あるのだろうか。ふむ。

 僕自身はここしばらくYahooサーチは使っていなかった(検索結果が甘いし、トップページがゴテゴテしていて邪魔だったので)ものの、昨今別のサイトでYahooサーチから飛んでくる人が散見されるようになった。
 というかそれ以前の問題として、Googlebotは一度に独りしか来ないのに、inktomiは数十人(って、「人」ぢゃないけど)単位で大挙して押し寄せるのはなぜなんですかね。
 ちなみにinktomiは暫く前にYahooに買収された検索企業で、ここの技術をゲットしたYahooは、テキスト検索におけるGoogleとの提携を切って自前(というかinktomi)に切り替えたとなむ。

 実際、Googleで拾ってこないサイトを見つけてきたりするので、検索特性にはかなりの違いがある模様。
 IT Mediaかどっかで読んだのだけれど、実際検索傾向が異なるので、今後は使い分けていくことも視野に入れる必要があるかな、と。

(というか、その「もう一つのサイト」で、よくGooglebotが来ているのに、どんなキィワードでGoogle検索しても上がってこないという個人的な残念至極〜ってのも、その判断の背景には、あったり?)

   →→→この項、書いて数日後に気づいたんだけど、ほとんどおんなじことを何ヶ月も前にCarbuncleさんが書いてましたです。あれ。読みのがしてたのかなぁ。ぎゃふん。

鉄と亜鉛の言語力

 僕は英語は……文章の種類にもよりますが、読むほうなら「ちびっとOK」ぐらいなのカモ(ってこの話題かなり前に書いたような気も)。

 自分自身では「駄目だなぁ」となむ思っていても、普通の人からみたら、欧文フォントのパッケイジに入ってる説明書とか読めるのはエライらしい。あのですね、あれです。だいたいの内容は同じですから。

 (ただし日本語環境とはいろいろ事情とか状況とか政治的配慮とか異なりますがー。1バイト圏だし)

 で、デスクバーの説明は訳さなくてもだいたい判ったからOKって話で。
 で、僕はWikipediaに文章を投稿するテンションが高いときと、そうでないときがあって(まあ実生活全般にそうなのだけれど)、後者のときには英語版から訳して来ようかなとか思ったりする次第。

 ところが訳そうとするとぜんぜんできない。つまるところ僕自身が読んで大意が判っても、それが事実関係として正しく、かつ自分が日本語で書くとき程度のレベルの判りやすさを確保することが夢物語となってしまうという。

 なんだかな。ふむ。

 えーと英語以外では、中国語。習ったのは。
 ……挨拶とかなら。

 それからゼミナールはいちおー、イスラームだから、
 えーと、アラビア語…………
 …………数字くらいなら。

 いや、そこの「そんなの俺でも書けるぜベイベ」って思ったそこの人!
  [[アラビア数字]] は我々が日用にしている、アラビア数字と呼ばれる算用数字とはカナリ違うのです。はい。
  (そういやここのノートが最初だったかなぁ)

 ……ま、これもいっぱつでおぼわりますわなー。おしまひ。

アンテナの話。

 木曜分について一カ所訂正したところ、ちゃんとアンテナにはひっかかるのですな。ふむ。新ゴが三菱銀行制定書体だとか。んなアホな。ってぇか[[ゴナ]]の、自分で書いた部分にあるぢゃん。ふむ。

 そういえば[[護身術]]、定義だけの文章が来ていたので追記しようと思っていたら即時削除のほうが先行したか。
 まあ別段復活させてもいいし、そうでなくとも事実上書き下ろすわけだろうから、いいんだけれど。

 で、話はいつかのところにもどるのだけれど、
     (って、ここで書くことを突然に忘失した。)

 ……えぇと。なんだっけな。

 この文章、前に戻ったり、あとの方を先に書いたりしているのでこういうことも起きます。未来の自分に読ませるためのものという位置づけでもあったりするので。(それを手がかりにして、いっそう進んでいける)

ツァップ氏のスクリプト体

 木曜のところで書いたのはZapf氏の、これ。かっこいいじゃないですか。

 でも、ふと思うんだけれど、これ最近の作品だけれども本人の昔の作品をベースにしているらしい。金属活字時代には到底無理だったわけで、テクノロジがようやく追いついた、という……。
 [[ダグラス・エンゲルバート]]は[[マウス]]を越えられず、[[ティム・バーナーズ・リー]]が[[WWW]]を越えられない……ような関係があるのだろうか。だとしたら僕も若いうちに何かを残さなきゃいけないのだろうか。

先週は戦えてない。

 昨今全体にそうなのだけれど、先週はとくに仕事が仕事になってなかった気がする。というか土曜日は出勤したけれどろくろく仕事していない感じ。いかんですな。まあ人生イロイロ。(関係ないけどイロイロって書くと、個個と略字で書いてあるように読める)
 そして今日も今日で、ゆるりと休んで

現実と乖離した人間がようやくに見た、聖地の式典の映像。

 僕はいつも現実時間の生活から遊離していると言われるのだけれど、今日だって、そうさぁ。なむとなむ。

 今日はオリンピックの開会式を観たり。

 ……ヘイカイシキぢゃないですよ。カイカイシキ。

 いまごろビデオを観たのさぁ。まあ昨今さほどに忙しかったわけぢゃあないのだけれどね。

 で、観ていて思ったのだけれど、日本選手団のユニフォームってあれでいいんですか?

 第一に、あれは「ユニ」フォームぢゃなくて「マルチフォーム」ですな。取り合わせを選んで組合わせろ、となむ。そんなふうでなければ個性を出せないというようでもないだろうし、個性はそんなふうにして出すものでもないと思う。

 えーと、裾のやたらと短いズボン(スラックス?)ってあり? 現代の主流である服飾(というかイギリス式のルールだっけ)では、人前に出る格好ぢゃないでしょあれ? それともハイソックスはいてたっけ?

 アップで映ってるところを見ると、模様とか綺麗だったし、ちゃんとしたモノだった様子。でも遠目で映えるようでなけりゃね。

若いぞヘイスティングス

 ビデオ画面から地上波放送に切り替えると、名探偵ポワロとマープルなる翻案アニメをやっておったので観てみたり。これ予告編ばかりで本編を観たことがこれまで無かった次第。
 ABC殺人事件ですなぁ。最後の落ち(下げ)のところもけっこう記憶してたり。偉いぞ自分。(指紋の話ね)

 ボナパルト氏は、原作ではもうちょっと老けてませんでしたかね。ふむ。

 ……ていうかあれがヘイスティングスですか?? ……若っ。

 まあポワロが独りで重厚なところを持って行くんですかね。ふむ。

カイカイシキを観ながら、高速のノウトを構築したり。

 還ってきたVAIOノートが別のマシンに進化していた(いや店舗レベルの代品交換)ので、OSは98からMeに進化(……ぢゃないかもしれない)してたり、いろいろだったので暫くは自分では使っていなかった(ゲーム専用機と化していたり)わけで、昨日ふと思い立って、いま凝ってるものを入れてみたり。持ち歩きのできる環境にそれを入れて、自室以外で使えることは楽しいかなぁとなむ想定。あと、メインマシンがXPだから、Meだとどうだろう、とか検証したりしてみたくもあり。
 そのためには一応、普段遣いのツールを入れておいたら便利便利。

 この作業は昨夜からやっていて、Air-H"を入れて通信できるようにしていたりしたら眠くなって寝てしまった次第。メッセンヂャを使えるようにしようかな……でもどうしよう、となむ思案してみたり。(背景いろいろ)

 というか死んでしまった98マシンは[[超漢字]]を入れて「瞬間起動式・思考支援装置」として仕立てていたのだったのを思い出し(忘れていたのか?)、HDDを切って入れ直し。そっちで書いてたデータは残念ながら消滅しているものの、「使える文字」とか意識しなくて良いコンピュータというのは本当に気持ちイイ。

 それから、[[広辞苑]](←Wikipediaの記事、参考文献が否定派ばっかり? 読んでないからまだわかんないけど)は、超漢字版を買ってあるので、それとかいろいろ入れる。
 ……紙バーヂョンのほうが安いし、使い勝手もそんなには負けてないんだけど。

 あれ、Macっぽい環境つくるやつなんだっけ? バックアップCD-Rに入ってない模様。というか「8.3形式」のファイル名のデータをそのままRに放り込んであるだけだから、当時はわかったのだろうけれど最近忘失しており、どれがそれだったか。(8.3形式って面倒っすね。自分がつけたファイル名ならいいんだけど)
 しかし僕の記憶している和文名とはかなり違うから違うに違いない。あとで早速検索しやう。いや、今検索だ、SymbolCommanderにGoogleサーチを埋め込んであるし、日本語版はまだ先のようだけれどGoogleDeskBarとかいろいろ便利にしつつあり。DeskBarの話は、忘れる前に書いておこう。どっかに。……順番変えて上に書くか。→上に戻る。

 で、いろいろインストールしていると、待ち時間が盛大に発生するのでビデオを観始めた、という次第。→二つ戻る。

 名前想起。「色々統合」ですな。
 ん。これを作ってる人ってBTRON界隈では有名な人?

本体に書いてないなぁ今日。

 「某所」(←と書くのがいいのでせうか? 単なる××?)で質問したり返ってきたり。

 GFDLと引用はムズカシヒ。

 上の方で書いたけれど、テンションが高めでないから以前ほどの密度で書いていなかったり。
 あと、モチベーションは昨今は武道の方に動いているし。

 そしてシスオペはやっぱり仕事をせねばならんのかなぁ。
 闘う気ぃは満々なのですが、幸いだか残念だか、夜中に待ち伏せしていても極悪人が通りかからないので辻斬り(←コラ)できない次第。悪戯する人はいるんだけれど、編集箇所を差し戻してる間にどっか行っちゃって別の時間にブロックされてたり。

 あと、最近は一年前と較べて、Wikipedia日本語版の質が全体に上がっているから、気楽〜にってぇ気分でもなかったり。

ある種の専門家

 そこで専門家の話題も出ていたんだけれど、僕って結局なにが専門なんだろう。いや一般人なんだけれど。[[利子]]のところで最初のメントに「専門外ですが」と書いたFeZnであるけれど、そのゆえに褒められたりして、あとから自分で「あの言い分はまずかったな」となむ思ったり。まあ経済は専門外なのだから間違いではないけれど。(てゆうか経済は、父の専門だよなぁ。すくなくとも学士ぢゃないし。それもあの大学だし。僕みたいな凡人とはワケが違う。……まあ日常生活においてどうかというと別問題なんだけれど)
 文化的側面を書いているのだから、それは僕の分野。「やっとこ卒業できた」というレベルのよりはずっとマシだと思うから「専門」と言っていいんじゃないかな。実際、Googleでトップに来る[[イスラム銀行]]はそれなりに書けてると思うのだった。入門用としては

 まあそれを判断するのが自分自身なんだけれど、ある種の基準が使えると思う。教材新聞か新文化のどちらかで大学教授が書いていたコラム(だと思う)に、こんなようなことが書いてあった。
  「課題を出して、普通レベルの学生が、あまりに出来の良い小論文を持ってきたら、出典(というかパクり元)を探す。……学生が見つけられる本なら、こちらも探すのが簡単だから、図書館に行ってちょっと探すとすぐ見つかる。で、不合格と書いて書名とページ数を添えて返すのだ。これが秘かな楽しみであった」……というようなことが書いてあった。

 その文章の続きには、「今は学生も図書館まで行くのをしぶるから、教員も楽になった」となむ。みな、検索で拾ってくるのね。だから教員側は、検索の技術を磨くという。
 僕が[[イスラム銀行]]の検索順位にこだわったりしたのは、検索に通じていない先生にもすぐみつかるようにしておきたかったから。まあ、これをやる学生も滅多に出ないでせうが……。元が百科事典用の文章ぢゃないから、加工しやすいと思うし。
 コラムの主は「図書館に行く楽しみが減ったと言えなくもない」というようなことを述べて。

 あ、でも、こんなふうな重要な一言も書いてあった。

 「どうしても転載元が見つからなければ、首を傾げつつも合格にせねば」

 いろんな意味で、考えさせられる。

 で、イスラム銀行についてだと、検索順位のn番目に来ているコンテンツについては、やれ「参考文献あれとこれだろうな」とか。そうでなくとも"その奥に介在している視点の数"から「まあ2冊ってところかな」というのが判ったりする。もちろんハズレとかあるんだろうけど、結構あたってるんぢゃないかと思う。
 …………というか、NHKスペシャルだけを元ネタに書いてるコンテンツあるよね? それをベースにした単行本の方ぢゃなくて。
 あの番組、良かったんだけど……小杉先生の名前が入ってない回があって、その回だけ用語からして怪しかった。どうして全部監修頼まなかったのかとか、どういう事情があるんだろうかとか考えたりする。
 (小杉氏に直接学んだことはないです。私淑してるだけ)

 これは日本語で、イスラム経済について書かれているものが少ない(英語だと結構ある……)からできるのことであって、かつ僕の知っているのは数年前の状況だから、今はもっといい論文が出ているかもしれない(ていうか石田先生の新しいのを探せばいいのかな)。
 広範な分野でそれができるのって凄いなぁと思う。
 書きながら一つ思いついたのは、読んだことのない本の意見を利用した文章を読んで、読んだことのある本を想起できたらなぁ、と。たとえばイスラームだと、板垣先生とかの文章、世界大百科事典と単行本だと当然ながら別の文章。でも、 その人物の拠って立つところの姿勢と、考え方から……
 誰の意見に発するものか、わかったりする……といいなぁ。  (願望かい!)

 (学問の師弟関係にある場合とか、そういった関係も透けて見えたりするよーな気も)

僕が何に通じているかというと

 ま、一般的な斜壊塵(シャカイジン)生活を送る僕としては、本職が本づくりだから本づくりが専門ということになるのかなぁ本当は。それでメシを食っているのだから……って、ところが穴だらけなのだな。ふむ。しかし、以前アルバイトをしていた仕事について加筆しようと思ったら「裏話」程度した書けないのに気づいて、やめた。ああそうか、きちんと仕事をするというのは、ひょっとしたらWikipediaに書けるだけのモノを持つ、ということなのだろうかとか、考えたりした。そして自分の仕事の範疇について、追記しようと調べるうちに、自分自身がこの社会の中で何を為していくのかということについて思いを馳せたり。そうしてWikipedianは日々己自身を錬磨し、Wikipediaともども成長していくのだ。

 Wikiversityって無謀な試みだな、と思ったりする。でもひょっとしたら…………。

 さて[[イスラム銀行]]の項目は、ウェブ上で入手できる、日本語でフリーのものとしては結構なものだと思います。が、そういう付帯条件をつけないとなると、まあ問題もあると思うのですがー。でもSafkanさんの手がしっかり入ってるし。

 あれですよ。あの超がつくほどマイナーな武道についてなら、 世界最大の解説が書けます。僕より詳しい方はいらっしゃいますが、僕のように文章を書けるわけではないので。でも公器を使って宣伝になりそうだとかいう問題もあるし、そもそも……「自由の意味のフリー」でなくたってウェブで公開したりして、僕の死体がどっかの海に浮かんでも困るので。

 フリーにすべきコンテンツと、そうでないコンテンツが世の中にはあるのだろう。

 あと、僕がいま書ける限りのことを記しても、1年後には自分で読んで首をつりたくなっているかもしれない。むしろそうであることを希望しよう。そうであるなら進化ということなのだろうから。

あと誤解する人がいるといけないから

 ここはそんなに来場者があるところぢゃないからいいんですが、念のため。
 僕は強くないっすよ。はい。頭でっかちなんで。(きっと頭突きが強いに違いない)


2004.08.26(木). たたかっていこう

たまにはギョウカイの話をしようか

 そういえば「たまには昔の話をしようか」ってぇ唄は素敵だったなぁとなむ思ったりする今日このごろ。かとうときこさんですな。ハイジャック事件とかいろいろあったりした数年前。ふむ。

 Bという大手(元はF。生徒手帳とかを作っていたことから、教育関係に出て行って、日本有数になったり)の、少なくとも一部(ある事業部で)OS Xに以降しようとする気配があるのだった。
 ふむ。Appleなどの企業はOS Xへの移行を(当然ながら)推進しているわけですが、現状としてはOS8体制を崩さないところも多いわけで。だからこそ最近Appleサイトで公開されたペイジでも、移行の手間は少なくてメリットだらけだよとなむ喧伝しているわけで。

 「若干問題があったけれども、解決した」……って、それの内容と実際の対処を知りたいと思う今日このごろ。OS Xでなければできない仕事とか現状、まわりに無いのが問題か。
 手動機時代(会社を興す前から、となるとそれより以前)からギョーカイに通じている某社(ものすごく一般名詞な感じの社名)の社長様のコトバを借りれば、「みな懲りている」のだろうか。ベンダーはアタラシイものを売らなければ儲からないから、絶えずアタラシイものを用意しつづける。ふむ。

 しかしB社がそうする(気配だけだけれど)ってのは存外大きいのじゃないかと思う。どうもQuarkXPressの6が(ようやく)出たあたりが重要な転換点らしい。InDesignは魅力的ではないのか?
 ところが正直僕はその二つのソフトウェアがよく分からないので困ったもの。オペレートするという視点でね。むしろそれについてはEDICOLORのほうがよっぽど僕のに染みついている。キィボードショートカットとかも。

古田フォント

 古田というと選手会長とか。

 でもそうじゃなくてFuturaをフルタとか読むのはどうなんだ? いろんな意味で間違ってる。
 まず読みが違う。アルファベットの順番が。
 てゆうかフーツラ(フーチュラ)ぐらい知らなくて、印刷×××××を名乗っていいのか?
 リュウミンってなんですか? って発言を聞いたら同じような気分になるかも。
 ……まあ、その「リュウミン」って名前自体、「フォント」を「活字」の意味で捉えられるような年季の入った人に言わせれば「あれはリョウミンなんだよ」となむ言われるのだろうが……

 この書体についてはまた面白い(と思う)こといろいろ。
 まだ詳しく調べていないけれど、ナチスドイツの制定書体で、だから今でもあの戦闘的な国では使われていないとか。

 書体ってぇやつは、日本のように「日本語の文字」という「一目で分かる」独自のものを持たないアルファベット圏で(そりゃあその言語でしか使わない文字や記号とかあったり、単語の綴りを見たら判る、とかはあるけど)、その代替としてナショナリティーを体現するものでもある、そうな。

 フランスを代表する書体、オランダを代表する書体、そういったものがあるという。

 そういう意識の文化だから、雑誌や新聞が自分のところの独自書体を作って使うのは当然のこととされる。まあ日本でも新聞とかは独自書体を使っているところも多いけれど、雑誌でそれをしているのはAXISぐらいか。そう、あのAXISフォント
 ……まあ、字数が多すぎるんですな。日本語は。
 それ言ったら中国語も同じだけれど。

 企業にだって、制定書体は必要なところ。
 経営や商品の実力が世界規模でも、欧米でお仕着せのフォントでマニュアルやカタログ作ってばらまいていたら、舐められるそうな。(まあ僕は欧米だけが外国じゃあないと思うからアレなんだけれど。……それにこれからは中国に注目する必要が)
 日本の企業で、制定書体をきっちりやっているところの代表は、やっぱりAppleだよなぁ。……ってこれはアメリカ企業か。
 新ゴが三菱銀行かどっかの制定書体だったハズ。
   →→→ゴナでした。ぎゃふん。

 つまるところ、印刷書体ってぇやつは、文化なのであって。(整理して今度投稿しやう)

そのフィールドで闘うということ

 そのAXISの欧文を作った小林氏は、写研の出だけれど、今じゃあライノタイプ(世界最大の書体会社だよなぁ。もちろん欧文最強)でディレクターをやっているという。

 非漢字圏の人が書道やったりあるいは日本語書体を設計して賞を取るようなものじゃないか。やっぱり凄いなぁ。

 いわゆる1バイト文化の文字は、字数少ないからといって簡単なわけではなく、その分幾何学的にかなり整理されていて、ボロが簡単に出るという。(いや僕ぁ専門家じゃないからよぅわからんのですが)

 そういやアップルのサイトで今回紹介されていた鳥海(とりのうみ)氏は小林氏とも親交が深かったハズ。そういや二人とも写研なんですな。ところで同記事で「大手写植機メーカー」としか書かれていないのはナゼ? 二代目から文句来るから?

 Cliffordはカッコイイけど、現在の氏の師匠のあの人のスクリプト体は(って違う系統のを較べるのが間違ってるんだけど)それをずっと越えて、僕のような人間にも判る「ゾクゾク感」がある。
 「僕のような人間」……って、まあ、アレです。OptimaとOptima Novaの違いやらありがたみがよく判らないし……
 (氏の現在の仕事があのあたりの改刻なので、「凄い」と言ったのはやっぱり肩書きやタイトルに踊らされているのかなあ自分)

Ctrlキーの行方

 さて、話は飛んで。
 いま文章を打っていて思ったこと。

 自宅で使っていた鍵盤(HHK Lite2)を仕事場に持って行ったので、399円(その価格設定で、どこで買ったかすぐ判る)でゲットしたやつを使用中。あれだけ「左下になけりゃ」と言っていたCtrlキーが、今は左手小指の隣にないと落ちつかない。
 人間は変化していけるものなのだなぁとなむ思ってみたり。

 進化していけるのだろうか。発展していけるのだろうか。


2004.08.23(月). 雨が降る降る

構えてゐても。

 一年も前から準備していたのに、結局1週間遅れでようやくモノゴトに対処できはじめた気がする。先週とか「今日も気合い載らなかったなぁ」となむつぶやいて「いっつも言ってるぢゃんそれ」とツッコミを受けたり。でも普段のソレとは違うのさぁ。そう、明然と異なるものであって。

昨日一気に書いたから?

 どうにもバランスが悪い。いや、呼吸のね。
 それも酸素の呼吸ではなく。


2004.08.22(日). ひさかたの更新

人生いろいろ。

 というわけで(謎)久方ぶりに更新してみたり。というかいろいろバタバタしていたのですよ。身の回りで。で、なんとか片づいたとかそういうわけでもなく微妙なところ。まさに人生いろいろ

 別のサイトは更新してたりするものの、それってアレ。けっこう「書き貯めた」コンテンツの投下であったり。

鍵盤が欲しい

 HappyHackingKeyboardが欲しくなってきた今日このごろ。あ、Lite2は持っているのでアレです。Proreccional版。静電容量スイッチを採用したアレ。RealForceも素敵なんですけど、ホウムポジションから手を動かさずに……というコンセプトのほうに最近共感しつつあり。

 以前の僕の入力&打鍵操作は、「ピアノのように」って感じ(僕が言ったわけぢゃないが)で、左右に手を踊らせながら文字入力とかCtrlを基調とする打鍵短絡とかをこなしていたのであって。
 そのときにはCtrlキーは左下になければならぬと思っていた次第。馴れではなく合理的な理由があり、「強い制御」を司るキーは、「隅」などの「指にとって」「特徴的な」場所になければならないという主張。
 しかしLite2を使っていて思ったのは、この配列は「左下隅」が「二つ」ある、ということ。それに「ホームポジションにおける左手小指の左隣」は、かつては殆ど使っていなかったものの、強力な制御の置き場所としてはなかなかに素敵な場所だということ。

 しかし現時点迷っていることとしては、いわゆるWindowsロゴキーの行方について。Pro仕様はFnキーと「◇」キーの入れ替えができるものの、Altキーとかとの兼ね合いで、どうにもロゴキーの居場所が左手で操作する範囲に無くなってしまう気配が濃厚。
 「スタート」ボタンを表示させるためだけのキー、という意味に於いては使う必要は無い。Ctrl+Escを叩けば良いのだから。しかし「デスクトップを表示」の打鍵短絡が存在することに馴れきってしまっている自分。ドラッグアンドドロップでゴミ箱(標準のアイコンはデザイン相変わらず変だと思う)に放り込むとか、そういった操作が不便になるのは大変に困ることであったり。

本日のゐきぺぢあ

 [[ノンブル]]に投稿して、それがメイン。あとは[[]]に加筆したりはあったものの。そのあと[[ガンダム]]関係を読んでいたら日が暮れたり。なかなか気合い入ってますなぁ。そのほかあちこち覗いていたら、[[日本の姓の一覧]]は要らんぢゃろとなむ。そうかなぁ。22世紀目指して活動を続ける超百科事典なら、これらはいつの日か埋めることができるだろうとなむ思う鉄と亜鉛。そもそも五十音の記事だって、1年前にはアレな状況であったのだという事実とか。

そして気づけばいちねんめ

 そういえばWikipedia初投稿から1年以上経過していたのだった。はっぴぃばーづでい! って誕生日ぢゃないけど。

 まあ、ウィキペディアンとしての誕生日?

 そして先日"Wikipeditor"で検索したら英語pageが引っかかってきた……のだが、現在はアウト。ふむ。なんだったんだろう。さらっと視線を走らせただけだったのでどういうことだったのか不明。きちんと読んでおけば良かったなぁとなむ。

 WikipeditorというかFeZnWareのシリーズはイロイロと企図しているところもあり。で、勉強中。

 最近勉強していることといったら、武道がメイン。本当にこれは発見の連続。
 DTP関係では、遅れ馳せながら[[Quark XPress]]を修行中。いままで[[EDICOLOR]]とか[[大地]]とかー。あと[[Microsoft Word]]なんてのもありましたな。「『ワープロソフトで作ったモノはDTPではない』とは言えない」とか理想論をぶってみても、やっぱりアレ。プリンタドライバに依存する組版結果なんて嫌だ。
 まあQXもちょっとした操作ならできたんですが、修正のレベル。きちんと組むのは大変そうだ日本語を。……しかし触るほどに、たしかに「どらっぐあんどどろっぷ」操作体系。実に実に。

しばらく前のWikipedia

 僕は自分で書く内容が、ときにコラム的になってしまうことがあるように思いもしていて、実際それに類する指摘とかあって考えてみた。「主観と客観」の問題だとなむご指摘いただいたり。

 しかし「はて」と頸をかしげもして。

 僕の捉える範囲では、主観文/客観文の違いではないように思われるのだ。そのようになる原因は。(というのも、それらを読み返してみても、そういったようには捉えられなかった。それともあれは一般論だったのだろうか?)

僕は活字を信じているから

 で、こう思うのだった。僕は活字を信じているから。あるいはWebの日本語環境におけるBoldとItalicの処理を疎んじているから。

 太字や斜体や、ファミリー化されたフォントと、フォントと連動しているシステムがあるからこそ有用なのであって、光学的に(いや手動機ぢゃないんだから「電子的に」)太らせたり傾けたりした書体が美しい筈もない。

 それから、比較的現代人のくせに写植以前の活字的な組版をこそ愛してしまっているからだろうか。絶叫や爆音を表現するためにフォントやそのサイズを変えたりしているのを見ると嗤ってしまう。「笑う」ではなく「嗤う」を使おう。

 そんなことをしなければ何かを伝えられないのか、と。貴方は活字を信じていないのか、と。

そういえば敬称について

 「貴方(あなた)」という呼称を目上の人に使っても構わないんじゃないかと述べていた方がいらっしゃいましたが、お願いですから実行しないでください。まあ僕の人生ぢゃないからいいんですが。駄目になってもね。

 日本語ではまだまだNGだと思いますよ。ことに、いま現在エライ人にとっては。

 えーと、まとめて斜め読みしてるだけなので正確ぢゃないかもしれませんが。
 FireWallかけていると書けない上に、しばらく不在にしていたときにだいぶすすんで昨今は流れを追うのも前ほどにもできないのですが。

 英語における「you」にあたる適切な訳語が無かったから訳文で使われるという事情が大きいのでしょう。ふむ。
 いやそれにしてもダメですよ。エライひとに「あなたは〜」とか言ったら。
 まあ英語発音を正しくすれば外国帰りってぇ扱いで、「なるほどねぇ仕方ないか」と思ってもらえるかもしれませんが

 ↑ちなみに僕は「欧米=英語」とか「外国=英語」と単純に考えているわけではありません。

外国製の万年筆

 えぶりまんしのゆうがなせいかつ、の作者のコラムを愉しく読んでいて、 がっかりしたこととか。いや、上に関連して。

 「万年筆などは、やっぱり外国製がいい。日本はまだその文化の成熟が足りない」

 ※数ヶ月前に読んだので細部は曖昧。

 外国って欧米だけですか?

 まあそれ以外は感銘を受けまくったのですが。

で、活字を信じているから。

 無駄に強調文字とか、あるい表組とか、あるいは頑張ればカギ括弧付きの表記とかを用いずとも、活字はそれ自体によって「伝える」力を持っているハズ。持っていると信じたい。それが僕の心の中を去来する。

 コトバの順番を入れ替えるだけでも、その表現は大いに変化する。そうして得られる世界は全く異なるものになる。

 ……だからといってコトバを弄しようとして、文章の意味が変わってしまうのはイカンですな。(→自分)

 そして文章を、ひとつながりにしようとするからこそ、
 ひとつの呼吸のもとにまとめようとするからこそ、
 ときにはコラム的になってしまうのだろうなぁとも思ってみたり。

 だからある意味において同一で、また異なってもいる。

プラスティックになるだろうか

 なりません。それはパテです。でもそれに近い様子には成るやもしれず。(ここで話がかなり飛んでる)

 暫く前に[[東急ハンズ]]でゲットしていたパテを使用して、二つのモノに使用してみたり。

 片方は[[]]の[[]]。とは言っても実刀ではなく模造刀。心得ていない人が使うと、鞘はいとも易く壊れてしまう。というか抜きながら方向変えるなよ〜。そりゃ鞘は砕けますわ。抜き付ける方向に鞘自体を倒さないと。それでもって呼吸とともに、一息に。

 で、ズタボロになった鞘をパテで補修。鞘は柔らかい木で出来ているので(ってそれは本身の場合か)ある意味、消耗品。

 いっしょうけんめい、ちまちまと作業していたら、パテが固まりだした。はう。2〜3時間で硬化するってんだからたしかに、うかうかしてると作業不可能なほどに固くなってしまうのは当たり前か。

ショウモウについて

 これってほんとうは「ショウコウ」なんですよね。

 本当は間違い。ドクダンジョウも間違い。誤字誤字。

 アタラシイってのは江戸の若者言葉(だっけな)。

 日本語に「ん」で始まるコトバは、時代をさかのぼれば見つかるようだし。

最近人生にショウコウしている彼

 プログラマだと思ってました。すみません。

 けっこう古い友人のプログラマで(いや違うんだってば)
 大々的にではないけれどもそれなりに使われているチャットソフトとか作っていたりする人物が居て、

 彼のサイトを見たら「ソフトウェア開発用マシン」の写真が載っていた。
 いわく、「馬鹿には見えないケースなのです」
 ……ケースレスにしか見えないのですが。
 僕はやはり馬鹿なのか?

 というかそういうことでもない。ケースレスといっても[[実包]]ではない。PCの部品が積み上げて繋がってるだけどいう……
 まあ、冷却効果は抜群ですな。

 で、本人。暫く前から憂鬱の模様。人生いいことないなー、とか。

 某作品の公式サイトからデカデカとリンクが張ってあったりすることとか褒めてみても「そんなのねぇ」となむ。

 僕から見ると彼はいろいろ出来て格好良いのだけれどな。

 そりゃあ殴り合ったら僕は勝てますが、そんな武力は独り分の力しか持たない。でも彼が次々と動く先で得ている人間のネットワークは、時には非常に強力なものとなるのであって。

(まあそこまで信じられる人間がどれだけいるかという問題も)

 ここは見てるのかなぁ、忙しいからみてないのかな?

世界を変えることはできる。一人の人を感動させることから。

 というわけで本人が読まないというつながりで褒めたりしてみやう。こちらは知らないハズ。

 水曜日の出来事。仕事場からの帰り道、信号待ちの交差点で通話の装置が小刻みに震えて。久方ぶりの知人からTEL。LHKというお店でむしゃむしゃと食べて(なかなかに美味)、人生イロイロについて語りあったり。

 エンゲキ。僕はそれに観客としても殆ど触れたことがなかったほどの。そんな世界に居る人と、喋ることは愉しい。僕がメディアの海の片隅でぷかぷかと漂っているように、向こうもその世界の片隅に居るに過ぎない。ただし違う。僕のように波間に漂っているわけではなく、毅然と立っている。立ち向かっている。

 8年前(そう、もう8年にもなるのだ。……いや厳密にはまだ7年半だけれど)はじめて出会ったときは、向こうもそんな世界に興味を持ってはいなかった筈。それが今はどうか。
 邂逅について、以前喋ったときに語っていた。

 自分が滅入って居るときに、誘われて、観劇して。
 そのとき感銘を受けて。
  「この溢れんばかりの生身のエネルギー。舞台というのは、なんと素晴らしいんだろう」
  「ああ、自分もこのように、誰かを力づけるような、ことができたらいいな」
 などといった感慨が魂からわき起こって来たらしい。(文章は編集してあります)

 「君だって、ただ自分が好きだからということで、その手につかもうとしたわけではないだろう?」

 …………僕は嘘にならぬよう、コトバを選んで(そうとは悟られないようにしながら)答えた。細かくはどう答えたかは記憶していない。けれども相当に焦燥を感じていたことは昨日のことのように思い出せる。

 僕は漂っているに過ぎないのだ。漂っているに過ぎないのだ。

 ただ心の赴くままに、目に映ったきらめきをつかもうと手を伸ばしたおさなごに過ぎないのだ。

視座によって世界は圧倒的なまでの異なりを魅せ

 異なりってなんだよ、と自分考えてみたり。
 まあいいか、辞書にあるだけが日本語ぢゃない。それに大型の辞書になら載ってるのかな? こういう使い方。「全然+肯定表現」 だって明治の文豪たちが多用しているのだし。

 ってそんな話題ではなくて。

  格好良いなぁ。素晴らしいなぁ。そして僕は負けているのだなぁ。と思う。

表意文字としての英単語

 「DOGはD,O,Gという参文字ではなく、dogという一単語が熟語として脳に飛び込んでくるのだ」と、ネイティヴの視神経と大脳で起きている処理について、誰かが語った。

 それからさらに援用して、僕は昨今思うのは「表意文字としての英単語」について。

 日本人でも、現今の状況下、「Mail」などの英単語を平文に混ぜて(読ませぬことを意図するのではなく)使用する例をまま見かける。(いや、ひょっとしたら僕が使っているので、やりとりする相手がそれに影響されているのかもしれない。が、僕自身誰かの影響を受けたような……?)

 メールという言葉は、手紙そのものを意味する一方で、日本に輸入されたそれは[[電子メール]]とほぼ同義になっている模様。かつ、コンピュータ関係の用語は訳さずにアルファベットの綴りそのままで提示されることも多い。日本生まれのハード/ソフト製品であっても英語名、ラテン文字綴りで打たれているものだって多数。

 本来漢字は一字一義(いやツッコミドロコ多いですが)と。そうしてMailなり、TELなりといった英単語は、文章中の他の文字の群れから浮き上がり、視覚訴求力の強い「ひとかたまり」として目に、視神経に、脳に訴えてくる。

 だから表意文字としての英単語が、じつは現代日本語の中で着実に進行しつつあるのではないだろうか?

 わかりやすいところではWindowsとか。カタカナで「ウィンドウズ」(ひどい例だと「ウインドーズ」)となむつづられていることよりも英単語そのままで使われているほうが多いのはどういうことだろう。

 無論僕は、既にデバイドの「こちら側」にいる人間になってしまっている。だからこそ日々目に触れる文章にそういった表記が多用されるし、その中で自分自身も使ってしまっているのだろう。

 けれども僕やその浴びている日本語を生み出し、投げ交わしている人々の使っているものだって日本語だし、コトバは辞書によって定義されるのではなく、人々の使うコトバを記録したものが辞書であるに過ぎないのだから。

 (辞書を信じられないならば、何を信じる? と誰かが言った。何か一つを信じるとかぢゃあないのさ、たぶん。絶対のものを求める心は崇高かもしれない。しかしそれはある種の思考停止であるし、まして辞書は神様の与えたもうたものなどではありはしないのだ)

矛盾するようだが思考の停止

 と、書いて矛盾するようだが、ある種の思考停止を僕はさほど軽んじていない。むしろそれは(場合によって)必要であり、いや必要というレベルではなく必須であろうと思っている。

 そしてそこにはいささかなりとも矛盾は無い。いや本当に。

楽器の女王に魅せられた

 土曜日。楽器の女王に魅せられてみたり。

 あれだけ身近に[[ヴァイオリン]]の演奏を聴いたことはなかったので、それにその他もろもろでかなり感動とか。

 それともここ暫く、普通に呼吸して生活しながらも、やっぱり傾いたり回転したりしているのだろうか?


2004.08.09(月). ひさかたのFeZnWare

非文明的生活

 というわけで4日ほどWikipediaを思い出さないほどに非ネット的生活を満喫して参りまして。
 PDAは装備していったのですがもとよりUTF非対応なので本体は読めませんし、それ以外のネットモノにアクセスしようと思ったらナゼか初日夕方からエラーが出るようになった次第。これは神様の意志?

 夏の高原は涼しくて、冷房が必要ないという素晴らしい環境。まあ夜は冷えるにせよ、湿度が低いことは助かる次第。

Ware

 というわけで2ヶ月ぶりにFW_Wikipeditorを更新。最新版0.270はこちら

 マルチアンドゥとかタグ挿入のアンドゥが必要だと思うものの実装方法が判らないので後回し。基本思想は「すべてを打鍵操作で」であるものの、まあ"頬杖ついて"マウス片手でサクサク編集するのも良いなぁとなむ思い、ポップアップ(コンテキスト)メニューを追加。

 あと、バグの温床だった「新規」を放逐。……別段敗北宣言ではなく、変な妥協の排除。僕がWikipeditorに望んでいたのは普通のテキストエディタの挙動では無かった筈、という初心への回帰でもあって。

遠くへ。

 ところで遠くに行っていて、僕は例年どおり新たな発見をできたのだろうか? いつもだと、このあと暫くは刺激を受けて鋭く研ぎ澄まされた自分でいられる。今回はさほどシャープではないか……

 とは思いつつも、例年のような一過性のものでないならば、より良い状態であろうけれども。


2004.08.04(水). ものほしがるその気持ちを

物欲

 少なくとも最近の僕にとっての物欲というものは、実はそのモノ自体に対してではなく、それによって得られる(と期待する)変化を望んでいるのではないかと思う。

 僕は比較的、「現状」というものに流されてしまいがちであり、自らの意志力でもって変化を起こすということはかなり苦手だと思う。だから、ある意味では置かれた環境に応じて様々な役割を果たしていられるのかもしれない。最後の皇帝の弟の言葉を借りれば、骨が無いのだ。(これは彼が彼の兄を評して言った言葉であったかと思う)

 モノを欲して、カタログを見たり店頭をさまよったりするとき、僕は、僕がそれを入手したことによって起きる自分の生活(あるいは自分そのもの)の変化を期待している。それによって起きる変化に対して財布の紐を緩めている。

 キィボードの選定にしたところで、それはウェブの世界との重要な接点であるので、スイッチの種類が違うだとか、配列が違うだとか、そういったことに関してかなりの関心を持つ。あるいは稽古用具が欲しいと思うのは、それ自体ではなく、日常の中にその行為が現在以上に組み込まれるということに対して出費をしようと考えているのだ。

 この傾向は古くからあったことではあるけれど、過去においては僕は、その変化によってもたらされる「結果」を望んでいたように思う。しかし現在は、その変化の「経過」自体を望む。そんな気がしている。(……これについてはまだ巧く表現できない。)

 iPodは、歩きながら音楽を聴くという生活を(それまでウォークマン類を持っていなかった)、インテリアっぽいラジオは、FMを聴く生活を。ガリレオ温度計は、温度計のある生活……ではなく、ガラスのインテリアのある生活を。竹内編集長(合掌)のあの雑誌は、Newtonのある生活を、それぞれ欲したものなのであって。

 生活……あるいは自己の変革? 自己とそれを取り囲む住環境の変革か。

 US配列の情報処理鍵盤が欲しい。それは慣れ親しんだものではなく、新しい接点にすることによって、異なった「モノの見え方」が訪れるのではないかという希望にも似て。

解説

 今日の駄文についてではなく昨日(一昨日)の駄文について解く説く。スカーレット・オハラは当初、"戦争"に対して脳天気に「負けちゃ駄目よ」となむ言っていた。が、死体となった鎧の兵士を(その口から溢れる血を)見て「なにこれ、人間が入ってるじゃない」と。
 そんな当たり前のことを、と笑えなかった。僕らにしたところで、同様の現実感の欠落があって、それで物事(人の生死にかかわること)を論じてはいまいか。
 そして、それは現在僕らにとって対岸の火事のようであるけれど、ある新聞広告にあったような「戦後五十年、いまや戦前である」というモノゴトの捉え方で見てみると、そうして自分たち自身が戦場に赴く事態が無いとは言えない。
 すると、人間のカンヅメに入って、無名の兵士として闘うのは自分たち自身になる、のではないだろうか。
 僕は戦争を知らないが、近代戦においては非戦闘地域においても頻々と死んでいく。まして昨今は、戦時と平時の区別すら無くなりつつある。テロリズムという形態の戦争行為によって。

解脱

 どうでもいいけどカイセツをついついゲダツと読んでしまうなぁ。ふむ。

道具

 FeZnWareは、マルチンドゥの実装を予定しつつも、現実的な日程に載せられずにいる昨今。

更新

 そして今日から数日間、来週になるまでの間、このサイトが更新される可能性は0%なのであり、もしも新しくなっているとしたらinfoseekの陰謀もしくは誰かによってパスワードが奪われたと思って頂いて結構なのであって。


2004.08.02(月). 僕に果たして嗤えるだろうか。

国会の定義

 黒海は黒鍵の再考器官にして六合の由比逸のリップoh期間である。

  (出典:ブリー百科事典『ウソペディア』)

神の名のもとに

 ……倒産か。ふむ……

蒸気少年におけるオハラの台詞は、秒刻のタイムラグを置いて魂を拍った。

 蒸気少年を見てきた。なかなかにナイスな映画だ。大友克洋万歳。
 まあ確かに今年のベストはもう一つのお城が動く話に持って行かれるような気もするけれど、まあ気にしない気にしない。

 ヒロイン(なのか?)の、あの物語の主人公と同じ名前の登場人物の自己中心ぶりは腹立たしくも思えぬほどの見事なレベルに達していて。だからこそほほえましくもある、が。

 彼女が現実と遭遇したとき、あの言葉。  「なによこれ、中に人が入ってるじゃない」  それは現実とはじめて相まみえた魂の言葉。

 僕の表情筋は微笑を形作ろうとして失敗した。

 笑えるのか? 僕に、僕らにあれが嗤えるのか?
 あれは、あの声は僕/僕らではないのだろうか? いまというこの現実の中で、
 そこに血が流れているという現実を見ずに/見えずに/知りもせずに、

 なにごとかが判ると信じ……いやそのようなことに思いを馳せるですらなく。

 関係ないが磯野家のあの少女が、人間のカンヅメという表現をしていたことを想起する。
 そうなのだろうな。そうなのだろうな。
 フレームの向こうに隔離された現実は、加工された食品に同じ。

 カンヅメの中身には、生身の生きた人間が入っているのに、

 僕らはそれを、本当の意味で知っているのだろうか?

〓後五十年、今や〓前である。

 「〓」は、ゲタと読む。元は活版の用語。ゲタと入れればまともなFEP(というか仮名漢字変換)なら出してくれるかと。

 この言葉は新聞の書籍広告で見かけたので引用。ゲタの部分には漢字1字が入る。

 そもそもゲタは、活版の文選工程において、必要な文字が見つからなかったときに、活字を逆向きに入れて組んだことから。活字は四角柱状で、文字が彫ってあるのの逆は一本の溝が水平に走っている。ここにインクがついて刷られると、この形状になるわけで。(だからおそらく欧文組版に於いては存在しない組み方であろう。そして日本の活版印刷の成り立ちから考えて、おそらくは漢字(というか中文)組版から発祥し輸入された方法論かと思われる)
 だから理屈としては、これが一つの文字として コードを与えられているということは、いささか滑稽なことでもある。が、そうしなくてはコンピュータはこれを扱えないのだから致し方ない。

 と、そんなことは置いておいて。

 あの鎧の中にはいっているのは、カンヅメの中の生身の人間は、

 明日には僕ら自身となる、

 そういう現実に、僕は慄然とする。

 ……それを理解せずして、いのちを論ずることは、賢いのだろうか?

    せんそうは、とおいくにのできごと、ふれいむのうちがわの、うつしだされたせかいであると、

 そうでないと知っている振りをしながら、本当は何も知らないのではないだろうか。

 モニタの中のウィンドウの中の、溢れる情報、かろくうつろいゆくもののなかに紛れさせてしまい、
 なにかが判ったような顔をしながら、それでいて何も悟ることなく。

近づいてきてゐるのはなにか。

 八月(というかもうその月)であるし、

 半世紀を遡るあの季節でもある。

 「暑かった夏」は、体感温度の話ではなかったと記録から判然としているあの夏が

 また来る。

かろくかたる、しかし過酷な現実。

 僕は戦争には遙か遠いところに生まれ、ここまで生きてきている。

 父は戦場には行かなかったけれどもそれを体験している世代で、価値観の大変動とかを僕が想像する以上のスケールで体験してきているのだろうと思う。

 しかしそんなもの(パラダイムシフト)より、あるいは身近な人の命というもののほうが、ひとりの人間にとって大きなそれとなってしまったりする、のだろうか。(これは判らないし、だいいち人によって異なるのだろう)

 妹尾河童の『少年H』の読了後、父は暫し饒舌になっていろいろな話をしてくれた。これはある意味判りやすくもある反応であるが、ほほえましいという気分には到底なれはしない。その中身。かろく語られるそれは、なんと重大なのだろう。

今ここに居て、呼吸しているという現実に

 その時よりもずっと以前に聞いた話は、僕自身の記憶も曖昧になりつつあるけれど、たとえばここにある話。その強烈な爆竹は、街の至る所に転がっていた。それを注意深く抜き出してきて、投げつけると派手に割れた。そう、派手に派手に派手に。そして器質的な損傷さえも時には。……指や腕や、あるいはもっと重大なものを失ったのはその友人たちなのであって。
 (ロレンスの映画で、腹に挟んだ起爆の装置が暴発してしまった、場面が、あった。それをいま想起した。いや、フィルムを初見の折りに僕はこの話を思い出して、過ぐる日の少年たちに思いを馳せた)
 いわゆる『悲運の王太子妃』が撲滅を訴えた兵器と比すれば遙かに穏当なことではあるけれど、終了したはずの戦争が非戦闘員の命を奪い続ける共通の事実は事実。(それを玩具とした無知無謀が責められるべきなのだろうか?)

 それはあるいは、ひとつ間違えば?

………、……。でも人は強い。

 だからこそ、なのだろうか。ひとのつながりはしっかりとしていて。

 ある種の文面(直筆)とか読んだりしたことがあって、それは何十通も。どうしてこんなに、同年齢で筆跡や文章の巧拙が異なるのだろう? それはやはり時代状況の所為だろうか。などと考えたり。

 しかしどれも熱い思いに充ちていて。

 ……いや、だからこそ、ではあるまい。ある局面においては殺伐としていたわけだし、現代だってある局面は殺伐とし、他の局面はぬくもりに充ちている。昔は云々と言い出すには、まだまだ僕は若すぎるし、暴走と狂騒の属性にまだ比較的近い。(それを僕が心底理解することはこれまでもなかったし、どうやらこれからもなさそうではあるけれど)

 僕らを囲むこの世界は、このさきどうなっていくのだろう。

 なにか一つの要素たりとも、断言できるほどに僕は無知ではない(なくなってしまった)。

 そう、でも、生きていくという中で、僕は信じ続けるだろう。……できるかどうかは判らない。そうしていきたいということなのであって。

 ……今ここに居て、呼吸(いき)しているという現実に、言い尽くせぬほどの感謝の念を。


2004.07.23(金). 情報に飽和していく。

おそらく今世紀は

 Wikipedianは情報を摂取して生きている生物であるが、昨今の僕の生活の様子を見ているとそれにおぼれてしまいそうな気配がある。というか、21世紀というのはまさしく情報に飽和していく世紀になるのかもしれない、と思ったりする。

人生は限られていて、情報は増大し続ける。

 で、RSSリーダーを入れてみた。

 まだこれの効果が実際に、感じられるほどは使いこなしていない。けれども結構便利そうな気配。「最近更新したpage」は現在RSS配信をしているので、自動的にリストを取得することが可能。

 そうすると、比較的すっきりとした状態で読み込めるような気がする。(まだ実感実験中)

アクセス解析も付けてみた。

 infoseekにはアクセス解析をオプションで付けることができるということを、初めて知った次第。無料オプション。
 というかあまり説明を見ていなかったというべきか。
 さらに言えば、そのオプションをつける前から、ページビューを見ることは出来ていたらしい。

 このページのカウンタはユニークユーザーを数えているので、まあ実際の訪問者数が判るものの、下部ページに直接来ている人や、バイナリを直接落としている人の数が判らないのだった。

 まあPVや転送量だけを見ても判らないのではあるけれども、ちょっとした傾向が判る。今回は実際の更新と、アンテナに拾われたタイミングが1日以上ズレたため、「はてなアンテナ」を頼りにしている人たちが、アンテナの表示が変わったあとにたくさん来たのだろうなぁという推測が強化される。(ユニークユーザー数を見ていても、なんとなくは思っていたものの、別段数字の推移を見ていたわけではないので飽くまでも「漠然と」だったので)


2004.07.22(木). 目をこすりながら深呼吸。

これが独自ドメイン

 よく考えたら(って考えるまでもなく)先週の話なのではあるけれども、

 http://www.fezn.com

 なる独自ドメインを使い始めてみた。

     ……まあ、URLフレームをつけているだけなので、中身はこのinfoseekサイトなのだけれど。

 なるほど、こういう仕掛けなのかインターネットというものは。

 ……などという感慨があったり。あとはメールアドレスががんがん自作(?)できるようになって結構これだけでも便利。

体力不足

 今週はさほどに体力を使っている気はなかったものの、昼休みにすかー……と寝て、「ああなんか疲れてるなぁ」となむ気づいた。


2004.07.17(土). 夕立の後に。

要するにい

 面倒なことが多いとアレですな。テンション低めになるという。

 今日はゆっくり睡眠を取ったりして復活気味。

 それでも今週は一冊刷り上がってきたから少々幸せな気分。

 …………………………ズレてるぢゃん。いんでっくす。

 ……そっか、本文と扉のところで、分業してたからだな。納得。

 納得しててはいかんのか。

読んでいるだけで日が暮れる

 現在ウォッチリストの中にある項目数は2293。皆さん頑張ってらっしゃるので、追っていくだけでWonder。これが愉しいし筆を執るモウドでもないからあまり書いてないのですな。
 (ドクショするだけでも愉しいしそれをするにはウォッチリストあったほうがいいからIPよりログインのほうが便利だと思うので)

 貯めているネタには、[[ロンドン橋]]とか。例のマザーグースとかの関連も非常に非常に面白い。アメリカに輸出された話とか。しかしきちんと調べないと穴に落ちる。

 書くモウドでないから、いま仕事で書いてる小さなコラム(ちなみに自分の名前が入るようなたいした仕事ではない)もはかどらない。まあこれで調べたこともまた書くことにしよう。相互補完的に充実していったらいいなぁ。

 それはそうとウォッチリストを眺めていたら(今日の話ではないけれど)○○○○○○さんが同い年であることが判明。というかこれは予想が当たったパターン。あるところで僕の名前と併記してあったけれど、氏のほうが断然頭いいし貢献してると思うのだな。ふむ。
 予想といえば別の例では、いちおう同業であるところの○○○○○○さんと、あるIPアドレスの人では後者のほうが年齢若干高そうだなぁとなむ予想していたら、これが同一人物だったというオチもついたり。(ってこの二つの話はかなり別々か)

ITMS

 アイチューンズミュージックストア(日本の新聞による表記)が1億曲突破でCDの売り上げがどうだとか新聞に書いてあったり。そしてITMSと略すのですな。ほう。

 たいていは[[iPod]]への転送ソフトとしてしか使ってないのだが、今日は珍しくソフト側で。

 ……えーと、なんか音飛びしてませんか? この曲はiPod上では問題なかった気がするが……

 ちなみにFeZnはWindows使用者でござい。

今日は外出

 今日は夕立が訪れて。

 このあと街中まで出陣。

 高校時代の悪友たちと杯を乾すのだった。

明日は映画?

 映画を観に行きたいと思うもののどうなることやら。というか明後日まで休みであるということを今更ながら思い出した。


2004.07.16(金). 睡眠を不足させる

人間の生活にはリズムが重要なのであって。

 気取ったタイトルが少ないし切れ味悪いのは疲れてるからかな。先週の疲れが出ているのか……

 あるいは今週は稽古に出かけていないから調子狂っているのか。

 忙しくて数ヶ月に数度しか行けなかった時期は逆に、行くと生活リズムが崩れる気がしたのだが、やはり習慣化することは大事なのだろう。

覚えてみよう。覚えてみよう。

 [[Emacs]]について。これを史上最強の[[テキストエディタ]]とする人も多いらしいけれど……って、具体的にこれを僕が知ったのはほかならぬWkipediaでのことであった。

 いろいろ調べて説明を見てみると、必ずしも僕の感性に合う操作系でもなさそうだなぁ……と思いつつも、その全体としての、「モノ」自体に興味津々。高機能テキストエディタライクな操作感で動かせるメイラーというのを僕は結構夢想していたりしたので、それが既に存在し、かつそれのみにとどまらず広範に操作可能であることなどに動かされて、Emacsの勉強を初めてみた。

 うぉぉぉインクリメンタルサーチ凄い! こりゃ便利だ。
 プログラマ用のエディタとはいえ、使いようによっては僕みたいなのでも便利なのではないだろうか。
 memo書きを参照しながら書いたりいろいろ。以前に自分が書いた文章との整合性を保ったり、あるいは一括で正規表現に基づく変換をかけたり。

 しかし保存の打鍵短絡が面倒ですな。

 あと操作関係で使用する打鍵に「Control+x」が多用されるのはどうなんだろう。これって押しにくくないですか? UNIX配列だと。
 (PC/ATのキーボードだとまた別)

外国語に思いを馳せる

 それをやっているとききに、最初、日本語チュートリアルの存在に気づかず、英語版を一所懸命やっていたというオチがついて。

 まあ、説明書なんかに使われてる英語なら、けっこう読めるんですけれどね。
 (あと、そもそも電算機の用語全体が英語からの輸入品が多いので、語彙の共通性が多いということがあるし、かつEmacsは打鍵短絡が、機能名称の英単語の頭文字ベースになっているので……かつ、やっていたのがチュートリアルであることもあって、指を動かしながら読んでいくことになり、これがけっこう「手と脳」をつなげているような気がする)

 しかし聞いたり書いたりはだめですし、一定以上の長さの文章になると目がストライキを起こします。

関係ないけどここでmemo

 このサイトとか、ときどき誤字あるものの、なかなか直していない。うーん。なぜだろう。

 ただし、ときにはわざとのこともあるので自分自身でも注意が必要。


2004.07.14(水). 昨日の次の今日があり。

面倒なことが多い

 いや本当にいろいろと面倒なことが多く。

 それでも先週に比べれば圧倒的に暇になっている筈であるものの。

 放置していたことの回収だとか、諸々のことで気が散るだとか。

 3サイト同時更新に挑戦しようと馬鹿なことをしているだとか。

 来月には早めの休暇を取る準備をしているだとか。

 Wikipediaに関して言えばアレを読んだりこれを読んだりナニカを放置したり準備を進めたり。 

昨日があって今日があり、そして明日へと続いてゆく

 ふと気づけば僕はまた違う処に来ている。

 そうして気づかぬうちに新しくなってゆく。

仕事場でつらつらと。

 今日はコラムの原稿を書きかけ。

 しかしその前には会社ぢゅうのPCが外につながらないということで一汗。(昨夜僕が帰ったあとにエラーになり始めたらしい)

 なんだかシステム管理者モドキ。世の中のこういうことをしている人たちは大変。

 役所の電算室に勤めている先輩がいるものの、当人いわく「オフィスアプリが人よりちょっと使えるだけなのだが」となむ。

    住基ネットって怖いですねぇ。

本日のURLメモ

 著作権関連、こちら。Tomosさんの有り難い纏め。

登録制にすると

 ↓組織票が強くなるし。


2004.07.11(日). 行単位鋳植機図書館社が特異装束社と結託し財政を攻撃する現実。

本日投票

 今日は投票日でありました。ふむ。

登録制?

 投票率を上げるのは非常に簡単で、数年ごとの「有権者登録」を義務づければ、少なくとも現状よりは上がる。

 「そんなことをしたって変わらない」と、証左なしに言うのは簡単。しかし投票時間を伸ばした「だけ」で変化したりもするのだから。

 そしてこれは権利を制限するものかというとそうではない(筈) 実施している国もあるのだし。

 「権利の上に眠る者は保護されない」のが「権利と義務」の関係性の基本なのではないだろうか?

 まあ、それだけで解決するようなことではないのだけれど。

秘密計画

 昔ちらと書いた(非常に具体性に欠ける状態)ものが順調に進行中。出費はいるけれども結構便利なものだなぁと感心。そしてそれ以上に自己満足感、だろうか。
 そしてこれと同じことを、別の活動をしているところに提案してみるか。そうすると社会的信頼感とかそのあたりも醸成できるのではないだろうか?

文字の意匠が衣裳の意匠に

 さて、それらも大事だがもっと大事なことがある。

 諸君がLinotypeの書体を愛しているならば、いますぐユニクロに走るのだ。

 そこには用意されている。諸君が袖を通すべきものが。

えーとつまるところ

 買っちゃったぢゃないですか。予定ないのに。二着。まあ¥2000だけど。

 ライノタイプって行単位で自動生成していく鋳植機のことですよね。それが会社名。凸版印刷みたいなものですかね。

 しかしチュウショクキと打って変換できないとはATOKもまだまだ修業が足りぬ。ていうかビジネス文書ならまだしも僕の言葉にはまだ付いて来ることが時には難しいこととなるらしい。

 チュウショクキはWikipediaに項目立てたいものの、印刷博物館で模型とビデオを見ただけだから困難。でもWebの海には詳しい人が存外多数いる模様。日本語組版の世界ではライノタイプ(行単位)よりモノタイプ(文字単位)のほうがたくさん使われていた模様。一字単位の訂正がやりやすいし、それにはやはり和文活字が四角いということもあるのだろう。一字訂正時に、セット(字幅)が同じだから簡単にできる。一方欧文では一字訂正でも単語間空白を何カ所も何カ所も直さねばならないゆえに、結局ライノタイプのほうが手間が掛からないということになるのだろうか。
 どうもその可能性が高そうだ。

 あ、モノタイプという会社もあったような。コルシヴァ体という書体と関係あり?

本当の散財をしたければ

 Linotypeのサイトで購入すればいいんですよねCD-ROMを。たくさん。


2004.07.10(土) 人生の転換点を雨滴と陽光が彩る。 

あたりまえのことが、こうしてはじまっていく。

 列席する。今日は会社の先輩の結婚式に。

 考えてみれば結婚式に参加するのは久方ぶりのことで、昨今は二次会だけだったりすることがずっとなので気楽であったものを。

 白いネクタイなんかないなぁ、ということで夏風味のものを使用。

 スピーチの代読だとか、ハジけてる趣向だとか、素敵な連弾だとかいろいろあったりしてなかなかに味わい深く。

 雨が大地を濡らし太陽を雲が深く覆っていたものの、演出の為に一度閉ざされたカーテンが電気の力で引き分けられたとき、僕たちの目をまばゆいばかりの光線が灼いた。

 僕はありきたりの言葉を賞賛することは少ないのだけれど、このとき結果として誰も言わなかったあの言葉を耳が希望した。雨降って(以下略)いやあるいは雲が晴れて二人の未来を象徴し云々と。

 あたりまえのことがおきて、あたりまえのことがはじまっていく。しかしそのあたりまえがあたりまえであるということが、なんともいとおしく得難いものであることか。
 ……たぶん僕はまだそれを本当には実感できていない。実感できない。しかしその片鱗に触れたのだろう。

普遍的プロトタイプ

 イスラーム神秘主義の一派には、そのあたりを述べているところもあってなかなかに面白い。ムハンマドは「生まれ・成長し・ 結婚し・子を得て育み・そして死を迎え」るという、人間の“人生”の基本パターンを具現化した表象(ちと違うか)であり、これはいわば普遍的プロトタイプ。対してアッラーは宇宙で唯一、死も生も超越したところに在(ましま)す窮極的アーケタイプであり、その二者は対極であり合一する。
 あたりまえのことというのは超越的超克的なことと鏡写しであり映し絵であるのか。

 ……ムハンマドの神聖化って良くなかったような。

 …………まあ宗教音楽ない筈なのにアメリカンなムスリムさんにはラップで唯一神を表現してる人たちもいらっしゃったりするようなのでそんなことを気にしはじめたら(以下略)

脱線の累乗。

 アッラーは「ア」ではなく「ラ」にアクセントだと思って貰ったほうが良いような。

平々凡々たる人生において、人が本当の主役となれるのは二度しかない。

 これは同僚が言っていた言葉で、彼は既に伴侶を得て進んでゆきつつあり、人生中での普遍的プロトタイプの完成に関して僕より二歩(数え方によって異なる)ほど先行しているのだが、今日もその台詞を聞いた。通ってきた道があるからこそ感慨もあるのだろう。僕とは異なる感慨が。

 (台詞はFeZnテイストに、かなり編集されています) これを今回のタイトルにしようと思ったものの、人の言葉だから遠慮しておこう。

 結婚式というのはその人が人の輪の中心に居て、拍手の渦の中心に居て、レンズの放列の中心に居る。そんな数少ない場であり、それよりなによりその空間の主人公となる、とういこと自体の希少性……
 いや、僕がどう書いてもまだ実感がないから意味無しとしよう。
 結婚式は二度三度できるとかそういうことはさておき、彼はこのように続けた。

 「次(に主役になるの)は、葬式だからね」

少年が出会ったものが何であるのか、本当はどうでもいいのかもしれない

 下で何か書いているけれどもこれは二つか三つの話が混ざっているのだな。困ったものだ。


2004.07.09(木). 溶けていきそうな暑さを創り出すこの太陽の下で、僕は文字の洪水を通して彼の貌と幽かに出会う。

少年はそのとき何に出会ったのだろうか

 日曜日の話になるのだけれど、例の少年のことをいろいろ読んだり。
 先日世に出てきた「元少年」……そう、97年の神戸の。
 当時もその後もいろいろと取りざたされたけれど、じっさいのところどうなのだろう。彼の犯行声明文は彼が想定した架空の三十男の書いたものなのであって彼の想いそのものではない。  じつのところ、僕は彼のコトが少しは判るような気がするのだ。いろいろと論評するまでもなく、ただ直感的に。

 性的なサディズムとか取りざたされたようであったり、周囲のこととか文化的環境だとか、諸々の要因が挙げられたようであるけれど、それらのことを吹っ飛ばして僕は判る気がするのだ。
 それは飽くまでも「気がする」だけであって壮大なる錯覚に過ぎなかったりするのかもしれないし、実際その確率は相当あるのだろうけれど。

 先日級友を切った少女についてだって、僕はわからぬではない。……ただし少年の心ほどにではない。その季節の巡った間に僕が摩耗してしまっていることもあるのだろう。
 その言説には比較的否定的ではあるものの、当時と今とでは電網接続環境が抜本的に異なっておりそれが今回の引金となった……から、その年齢にそういった環境に染まっていなかった自分などとは異なるのかもしれない。(僕は彼よりは比較的年長)

 これは現代の病なのだろうか。僕は必ずしもそうだとは思わない。いつの時代だってこういうことはあった(むしろ減少しているのだという話もある)のだし、一部はおとぎ話として記録されてもいる。少年が保護されるべき存在だというのは一面では真理であり、一面では憂慮すべき言説なのだろう。彼ら(僕らも)は戮する属性を持っているかもしれないのだ。(断言はやめておこう。 ……というかそれでありながら僕は基本的には性善説を採る。なぜか。……長くなるし自分自身まとめることができていないし。←ならまだ書くなよ)

 数十年前の、新聞などを見てみたことがある。(年号などは忘れてしまった。自室の大量の紙資料の中にひょっとしたら紛れているかもしれないけれど)
 17歳が危険な年齢だとか云々。あらまあ。現代よりもよほど凶悪かつ危険な事件を起こしている17歳たちがいる。
 そして僕をして笑わしめる事実があるのだ。この17歳たちなのだ。長じて後の17歳たちを危険と言っている(た)のは。
 どうして人は忘れてしまえるのだろう。自分の生きてきた時代を、その同輩同胞たちを。そのこころのあやういきらめきと闇とを。

 僕は多分、なんらかの条件があれば活字の世界映像の世界を永く揺らすような行動に臨んでいたかもしれない。その境界は存外に薄い。
  こちらがわの人間として、あちら側の人間との間に壁を作ってみても、それは本当は壁などではないか、ドアだけ閉じて壁の無い家に閉じこもって声高に己が理性の側に立っているのだと叫んでいるのかもしれない。
 僕が人と違うとしたら、その危うさを常に感じている(いた)ことだろう。……いや、本当は誰もがそれを無意識下で知っているのかもしれない。
 だからこそ社会はそれなりの諸々の機能を有していて、僕はそれを参照することで、それをブレーキとしていたのかもしれない。
 人は人の命を縮めることができる。その障壁は実のところ低く脆い。
 そしてそれは少年の属性であり、またそうでもない。つまるところ人間の属性なのだろう。

 ひとはたいへんにあやうい、地球を覆う大気のように薄い理性の下で生きている。


2004.07.07(水). 耕して天に至る

みごと校了。

 ……なんというか、とりあえず疲れたのであって。
 でも明日もまだたいへんなのですな。

七夕の夜

 空を見る余裕もなかったけれど恒星の邂逅は成ったのだろうか。

 棚畑。耕して天に至る。タナバタ


2004.07.06(火). とおりすがりの大きな出来事

コンピュータの世界の人類学

 僕はだいたいにおいて預かった物事をやるのが途方もなく遅延するので、こういう人間に何かを任せてはいけない。有耶無耶(うやむや)にするのが得意なのだし、そうでなくとも遅延に遅延。

 遅延信管は使い向きがあったりするけれども人間社会ではなぁ。僕が一番アレなんではないかな。なすべきことをしていない一位。検証していませんが。

 でもそのうちのあらかたは忘れてしまっているわけではなく、たとえばハッカー文化と贈与の経済について考えてみようというアレは、時折思い出したように考察している。(って、ほかにいろいろ問題のことはあるのだけれど)

 どこかでそれになぞらえた文章を読んで批判的な感慨を抱いたりした。「それは贈与の文化とちゃって単なる内輪ボメの内輪ウケやないんか?」となむ。贈与の文化は、それに流通的な価値(経済的・実利的でなくとも)があるからこその贈与の文化ではないのか?
 AがBを褒めてそれが連鎖して繋がっていくというのは全く別の話ではないだろうか。

 …とまあ、しかし「どこでよんだっけ」というレベルでもあるし、そもそもまだまだ背景が足りない。
 それに常々己に課していることとしては、「批評というのは頭が良く見えるのだから」という台詞。これは僕の知っている人が、別の人としゃべっているのを偶然聞いたから。もう10年以上前になるのだろうか。

 当人は軽い意味でしゃべっていたのだろうけれども、それが己にとっての木鐸となる。これは(この内容が、ではなく、そういった刷り込みが生じ得るという事実そのものが)極めて重大な指針を示す。

バンシャク

 今週はそうではないものの、先週はバンシャクなどしてみたり。深く眠れて翌朝しっかりと目覚め得るような気がするのだ。僕は熟睡と呼んでいる。
 しかし本当は眠りが浅くなるそうな。だから素早く目覚めるのか。そうすると疲労は蓄積する。

2リットルの福音

 サントリーの烏龍茶を愛飲するも、500ccよりも2リットルのペットボトルで買ったほうが安いのですな。でもコンビニで買うよりホームンセンターのほうがさらに半額だし、自分で煎れればもっと安上がり。

そこで私信

 煙草は健康に悪いと思うのです。

日曜に読んだもの

 関係ないのだけれど(ってこのフレーズ多いなFeZn)97年の事件のアレとか。

M社

 なんだか行き違いあるような気もする。

Ware

 いや止まってます。というか実際投稿活動自体が逓減傾向。やむをえぬか……


2004.07.04(日). 文字の持つ喚起力というのは

スイリ作家

 昨日稽古に行ったら、終了後の時間で後輩たちがしゃべっているのを小耳に挟んで。

 どうやら本とかの話をしていた模様で、その中の誰かが「そういえば父の友達に推理小説家の人がいる」となむ。
 周囲が「なんて人?」と何気なく聞くと「なんかA(イニシャル)って名前の」と、本人はあまり興味ないのか知らないのかの様子。

 …………めちゃ有名ぢゃないですかその人。

 新本格。

人類みな兄弟

 知り合いの知り合いの……とたどっていくと、地球上のどんな人でも6人だか7人ステップを踏むとたどりつけるそうな。だから「俺のトモダチのトモダチが……」となると、かなり広い範囲が含まれるという。首相も大統領も皆、間接的知人。  人間と人間が横でつながっているその広がりから考えると、たしかにそれはステップをひとつ広がるごとに、幾何級数的どころではないものすごい広がりがあるのだろう。えーとねずみ算式、か。

 しかしもし地球上に、完全に分断された二つの文明世界があったとしたら、絶対に地球上の全人類が間接的知り合いにはなれない。……が、もしその二つの世界の間に一組でも友情乃至愛情の類が成立すれば(というか「知り合い」で良いのだから深い関係である必要はない)その二つの世界は分かちがたく結びつく。すべての人間は知己を通してその知己であるのだ。くろがねのたんづつの引爪に人差指を掛けている人も、照門と照星を結んだその延長線上にいる人も。

どうでもいけど

 「兄弟みな人類」(そうでないのがあるのか!?)とか「人類みな巨大」(そりゃ困る)といったギャグがあったようななかったような。

スイリと言えば

 京極夏彦作品が映像化ですか。 あのトリックどうやって映像化するんでしょうか。

明日の予定

 明日はM社。なにかと話題のM社とグループ企業。

 なにかと話題と言えばL社ってのありますけど最近は。しかしこちらは縁は無し。


2004.07.03(土). そう、あの小説の台詞。

やばいかもしれない。

 「やばいかもしれない」

 「やばいって?」

 「今はそれしか言えない」

 「医者が何か言ったのか?」

    (三田誠広『いちご同盟』)

 記憶で抜き書きしてるので誤字とかあったりするのかも。その場合引用の問題とかどうなるのかなぁ。ここは関係ないけどWikipediaのGFDLの問題とか。そうすると誤字一字が自爆要因? いまだにわからない。関連文書や議論を読んでみてもさっぱりわからない。謎だ。

 というわけで話を戻すとこの作品。映画もドラマもありましたね。映画のほうは観て……ない気がします。たぶん。小説のイメイジがかなり鮮烈。もとは国語の教科書に載っていたことから興味を持ったような気が。

牛乳は健康に良い

 しかしガブ呑みすると健康に悪かったりするのか。たしかにそれは良く聞くことではあるけれど、僕は平気だと思っていた。
 ……さすがに1リットル呑むと胃腸の具合がおかしくなるのか。
 昔は平気だったはずだけどなぁ。歳だろうか(まだそんなトシぢゃないが)
 あるいは先週疲労が蓄積していたからだろうか?


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